山下公園の地面の下には、1923年に焼けた横浜の街の瓦礫が埋まっています。山下公園は、関東大震災の復興事業として市内の瓦礫などを埋め立てて造成した公園です。海に面したこの公園を起点に、横浜の被害がどれほどだったのか、今の街のどこにその跡が残っているのかを、公的な資料で確かめていきます。
横浜市の被害:死者26,623人、焼失25,324棟
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が起きました。死者・行方不明者は、気象庁が理科年表によるとして10万5千人余、神奈川県の資料は100,000名を超えると書いています。
横浜市の数字は、神奈川県の資料「神奈川県の関東大震災被害」の表によります。この表は諸井孝文・武村雅之の研究による推定で、県全体の死者・行方不明者は32,838人です。
| 項目 | 横浜市 |
|---|---|
| 死者・行方不明者 | 26,623人 |
| うち火災による | 24,646人 |
| うち住家の全潰による | 1,977人 |
| 住家の全潰 | 15,537棟 |
| 住家の半潰 | 12,542棟 |
| 住家の焼失 | 25,324棟 |
横浜市の死者の大半は火災によるものです。内閣府の記事では、横浜市の住家の全壊は約1万6,000棟で、人口が5倍だった東京の約1万2,000棟を上回ります。焼失面積はおよそ10km²で、その中に出火点が177か所ありました。出火点が市街地に集中し、逃げ場を失った人が空き地や橋の上で亡くなった例が多くありました。
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震度7だったのか:気象庁と県の資料は言い方が違う
はまぎん こども宇宙科学館のパネル展は、横浜市中心部などが「震度7の激震」に見舞われたと説明しています。神奈川県の資料も、県のほぼ全域が現在の震度6強から7に相当する揺れに襲われたとしています。
気象庁のページの書き方は違います。この地震で観測された最大震度は6です。当時の震度階級は震度0から震度6までの7階級で、震度7という区分がありませんでした。家屋の倒壊状況などから現在の震度7相当の揺れだったと推定される地域として挙げているのは、相模湾沿岸地域や房総半島南端です。
つまり「横浜は震度7」は観測された値ではなく、建物の被害から後で推定した揺れの強さです。県の資料の表も、住家の被害の数字から震度の分布を推定した研究を元にしています。展示で「震度7」の文字を見たときは、この違いを思い出してください。
津波は相模湾に来た。横浜については書かれていない
震源域が相模湾内にあったため、三浦半島から伊豆半島東岸に高さ数m以上の津波が来ました(気象庁)。早いところでは地震の5分程度あとに来て、熱海で12m、房総半島の相浜で9.3mでした。神奈川県の資料には相模湾沿岸部で6〜7mの津波とあり、根府川駅では崖崩れと地すべりで駅ごと列車が相模湾に転落したことも載っています。
東京湾側にある横浜の海岸の津波については、気象庁のページにも県の資料にも記述がありません。
焼失した地区の中で助かった場所:横浜公園と旧横浜正金銀行
横浜公園は、内閣府の記事に「多くの命を救った横浜公園」という題で取り上げられています。焼失した地区の中にあった横浜公園に約6万人が避難し、53人が亡くなりました。園内の樹木と、水道管が破裂して水があったことが延焼を防ぎました。東京の被服廠跡では、避難していた約4万人が亡くなっています。

旧横浜正金銀行本店は、いまの神奈川県立歴史博物館です。地下1階・地上3階のレンガと石造りで、窓などの開口部には鉄扉が付いていました。行員と避難者340人が中に入って地下室に籠城し、炊事場の汲み置きの水を飲んで全員が生き残りました。この記事の最初の写真の建物です。
山下公園:瓦礫の埋め立てと復興博覧会
山下公園の開園は昭和5(1930)年3月です。市内の瓦礫などを大正14年から4年がかりで埋め立て、上を良質な土で覆って造成した公園です。当時は現在の沈床花壇の部分が船溜まりで、氷川丸の横にある小さな橋がその名残です(氷川丸の記事)。開園5年後の昭和10(1935)年3月には、この公園で復興博覧会が開かれました。これは関東大震災からの横浜の完全な復興を祝う博覧会で、横浜都市発展記念館の常設展に当時の絵葉書が出ています。


面積は74,121m²。所在地は中区山下町279で、みなとみらい線元町・中華街駅の出口4から徒歩3分、JR石川町駅中華街口から徒歩15分です。
震災のあとに建った建物:横浜市認定歴史的建造物から
横浜市の認定歴史的建造物の一覧には建築年が書かれています。震災の翌年以降に建った建物を、都心部と山手から拾いました。
| 名称 | 所在地 | 建築年 |
|---|---|---|
| 横浜指路教会 | 中区尾上町 | 大正15(1926)年 |
| 旧横浜生糸検査所附属生糸絹物専用B号倉庫及びC号倉庫 | 中区北仲通 | 大正15(1926)年 |
| ホテルニューグランド本館 | 中区山下町 | 昭和2(1927)年 |
| 山手隧道 | 中区麦田町〜石川町 | 昭和3(1928)年 |
| ベーリック・ホール | 中区山手町 | 昭和5(1930)年 |
| 横浜海岸教会 | 中区日本大通 | 昭和8(1933)年 |
| 横浜税関本関庁舎 | 中区海岸通 | 昭和9(1934)年 |
一覧が書いているのは建築年だけで、震災との関係に触れているのは「山手26番館 大正末期(震災後)」の一件です。震災で被害を受けて建て直したと資料に書かれているのは横浜生糸検査所で、横浜都市発展記念館の常設展には、1926(大正15)年に耐震性と耐火性を備えた鉄筋コンクリート構造で再建され、震災復興建築の中でも最大規模だったとあります。山手の西洋館では、ベーリック・ホールが昭和5年の建物で、エリスマン邸(旧建物は大正15年)とブラフ18番館(旧建物は大正13年)は復元です(山手の西洋館の記事)。

復興の計画と、鉄道・電灯が戻った日
横浜市は1919(大正8)年に交通網やライフラインの都市計画に着手していましたが、財政難と震災で中断し、震災復興の過程で部分的に実現して現在の都心部の骨格ができました。復興の計画図は内務省技師の牧彦七が作り、『横浜市復興会誌』(1927年)の付図として残っています。
内閣府の報告書によると、横浜と外部の鉄道の連絡が回復したのは9月6日、電灯は8日以後に順次でした。遺体の収容は6日、給水と道路・橋の復旧は8日からで、東京より遅れています。東海道本線の横浜〜桜木町間は、12月末ごろまで復旧にかかりました。
同じ報告書は、横浜などで略奪事件が起き、朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊・警察の一部による殺傷事件が生じたと書いています。
展示を見る場所:都市発展記念館、開港資料館、パネル展
| 館 | 震災に関わる展示 | 料金 | 所在地・最寄り駅 |
|---|---|---|---|
| 横浜都市発展記念館 | 常設展「都市形成ゾーン」に「横浜大地図 大震火災区域」(京浜出版社、1923年)、震災復興都市計画案、復興博覧会の絵葉書 | 一般200円、小・中学生と市内在住65歳以上100円 | 中区日本大通り12。みなとみらい線日本大通り駅3番出口から0分、JR関内駅南口から徒歩10分 |
| 横浜開港資料館 | 令和5(2023)年8月に企画展「関東大震災100年 大災害を生き抜いて−横浜市民の被災体験−」を開催 | 展示室1・2のみ開室時は一般200円、特別公開時は500円 | 中区日本大通3。日本大通り駅4番出口から徒歩2分 |
| はまぎん こども宇宙科学館 | パネル展「神奈川で震度7!ー1923年関東大震災ー」、2026年9月5日(土)〜11月30日(月)、5階の宇宙船長室 | 無料(入館料別途。大人400円、小・中学生200円) | 磯子区洋光台5-2-1 |
3館とも開館は9:30〜17:00です。都市発展記念館は券売が16:30まで、休館は毎週月曜日と年末年始ほか。開港資料館は入館が16:30まで、休館は月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始ほかです(横浜開港資料館の記事)。はまぎん こども宇宙科学館は最終入館が16:00で、休館は第1・3火曜日、10月の休館日は6日と20日です。パネル展は板橋区の協力によるもので、地震と津波の科学データのパネルと、地震の当日を収めたフィルム映像を見せます(はまぎん こども宇宙科学館の記事)。
開港資料館の常設展示のどこに震災の資料があるかは、公式サイトの案内からは分からず未確認です。震災の展示を目当てに行くなら、都市発展記念館を先にしてください。
駅から回る順
日本大通り駅で降りると、3番出口の横浜都市発展記念館、4番出口から徒歩2分の横浜開港資料館の順に見られます。山下公園へは、元町・中華街駅の出口4から徒歩3分です。ホテルニューグランド本館は同じ中区山下町にあります。
はまぎん こども宇宙科学館は磯子区洋光台で、日本大通りの2館とは離れています。パネル展は11月30日までなので、別の日に組むのがよいと思います。行き方は科学館の記事にまとめてあります。
編集部の考え
数字は、どの資料の何を数えたかを添えて読むものです。横浜市の死者26,623人は、県の資料が載せた研究者の推定で、うち火災によるものが24,646人。「震度7」は観測値ではなく建物の被害から後で推定した揺れの強さです。気象庁は震度7相当の地域として相模湾沿岸地域や房総半島南端を挙げ、横浜の名前は出していません。県の資料とパネル展は横浜を震度7と説明していて、同じ地震でも資料によって書き方が違います。
歩いて見られるのは、被害の跡というより、助かった場所と復興の場所です。横浜公園、旧横浜正金銀行本店、瓦礫の上の山下公園、震災のあとに建った建物。焼けた範囲そのものは、都市発展記念館の「横浜大地図 大震火災区域」で見るのがいちばん早いです。
いまの横浜で地震や大雨の警報を確かめる先は、防災情報のリンク集にあります。