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横浜都市発展記念館 震災で建て直した電話局で昭和戦前期の横浜をたどる

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日本大通りの交差点から見た、濃い茶色のタイルを張った4階建ての旧横浜市外電話局。1階にアーチ形の窓が並び、奥に高層ビルが建つ
旧横浜市外電話局の建物。横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館が入る(2015年2月撮影) 写真: Nightandmagic(CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons)

竣工を目前にしていた電話局の局舎が、1923(大正12)年の関東大震災で大きな被害を受けました。工事は再開されず、新しい設計で建て直したのが、いま横浜都市発展記念館が入っている建物です。1929(昭和4)年に横浜中央電話局の局舎として建ち、戦後は横浜市外電話局として長く使われました。

常設展示室はこの建物の4階にあり、昭和戦前期を中心に、横浜が大きな都市になっていく歩みをたどります。館長あいさつには「現在の横浜市をよりよく理解するために、その原型が形成された昭和戦前期を中心にして」とあります。横浜は1901(明治34)年から1939年にかけて6回の市域拡張を行い、いまの複合的な都市になりました。展示の資料と、それを納めた建物は同じ時期のものです。

震災で壊れた旧局舎と、中山広吉の新局舎

設計は逓信省で、大正時代に建設が進んでいた旧局舎は表現主義の影響が色濃く出たデザインでした。それが震災で壊れ、新局舎は横浜出身の技師中山広吉(1896-1987)が設計しました。中山は戦後も長く郵政省の営繕組織を率いた建築家です。横浜市の認定歴史的建造物の案内では、設計は逓信省営繕課、施工は安藤組で、構造はRC造4階、地下1階です。

新局舎は外壁の全面に濃茶色のタイルを貼り、装飾を控えた堅実なデザインです。それでも2階から4階をまとめる柱型や、水平に走る石の装飾帯に古典主義の構成が残っています。昭和戦前期の逓信省の建物に見られる意匠です。外観では、1階に並ぶアーチの窓と、断面が半円形の覆輪目地で貼ったタイルも特徴です。

電話局だった名残は階の高さにあります。事務室や交換手の休憩室があった2階と4階に比べて、事務室のあった1階と、電話交換器が置かれていた3階は天井が高くとられています。竣工当時は大さん橋通りに面した側が正面の玄関で、入って右手の加入課事務室で電話加入者の受付をしていました。

改修で残した外壁のタイル

NTTの移転をきっかけに、建物は横浜市の施設として保存活用されることになり、平成12年度に「旧横浜市外電話局」として横浜市認定歴史的建造物になりました。2001年から始まった改修工事では、本町通りと大桟橋通りに面するタイル貼りの外壁を現状のまま保存しています。外観はやや古びて見えます。館の建物解説には「それはこの建物が経てきた年月の証といえるものです」とあります。

内部は展示施設として大きく手を加えられましたが、旧第一玄関だけは改修前の雰囲気をそのまま残しています。

建物は横浜ユーラシア文化館と同じで、2階がユーラシア文化館の常設展示室、3階が企画展示室、4階が横浜都市発展記念館の常設展示室です。

4階の常設展は3つのゾーン

常設展は「都市形成」「市民のくらし」「ヨコハマ文化」の3つのゾーンに分かれています。

都市形成ゾーンは、横浜市が1919(大正8)年に交通網やライフライン、住宅施設の計画に着手したところから始まります。この都市計画事業は財政難と関東大震災で一時中断しましたが、震災復興の過程で部分的に実現し、それが現在の都心部の骨格になりました。復興のために招かれた内務省技師の牧彦七が作った震災復興都市計画案や、1935(昭和10)年に山下公園で開かれた復興記念横浜大博覧会の絵葉書が並びます。1930(昭和5)年頃の桜木町の絵葉書には、復興事業で整備された桜木町通りに荷車から路面電車までが並び、高架を省線電車が走っています。砂利輸送から郊外電車に変わっていった神中鉄道(現相模鉄道)の沿線案内もここにあります。

ライフラインの資料では、日本大通りから出土した明治期の煉瓦造下水道マンホールの模型と、獅子頭共用栓の複製があります。明治期のガス灯の複製は屋外展示です。横浜建築探訪のコーナーで取り上げる横浜生糸検査所は、1926(大正15)年に鉄筋コンクリートで再建された、震災復興建築のなかで最大規模の建物です。

市民のくらしゾーンは、大正期から戦後の高度成長期までの住まいの変化をたどります。昭和初期のミルクホールで使われたガス式トースターは、パンを2枚同時に焼けますが、両面を焼くには人の手で裏返す必要がありました。1921(大正10)年に横浜市が建設した市営の中村町住宅地は模型で見られます。

ヨコハマ文化ゾーンには、館が所蔵する1934(昭和9)年の写真アルバム『横浜グラフ』の写真があります。南米移民船の離岸、野沢屋百貨店が中央に写る伊勢佐木町の空撮、横浜公園球場で日米野球第9戦に出て2本の本塁打を打ったベーブ・ルース。1911(明治44)年に長者町に開いた洋画専門の映画館オデヲン座や、1914(大正3)年に鶴見に開園した花月園の鳥瞰図もここです。『横浜グラフ』は写真306枚と解説文265点を、館のウェブサイトでも公開しています。

関東大震災そのものの跡を街で歩く話は、関東大震災の跡を歩く記事に分けています。開港期の資料は、同じ財団の横浜開港資料館が持っています。

10月10日からの写真展「戦後横浜の光と影」

2026年10月10日(土)から12月27日(日)まで、企画展示室で「昭和100年記念 五十嵐英壽・常盤とよ子・奥村泰宏写真展 戦後横浜の光と影」が開きます。館が所蔵する3人の写真家の作品で、五十嵐英壽の写真で戦後横浜の歴史を通史的にたどり、常盤とよ子と奥村泰宏の写真で戦後の社会問題に切り込む構成です。趣旨文には「単なるノスタルジーを超え」とあり、常盤とよ子は夜の街に生きる女性たちを、奥村泰宏は戦争孤児の救済事業を撮っています。

この期間の観覧料は一般800円、小・中学生と横浜市内在住の65歳以上は400円で、常設展とユーラシア文化館も見られます。11月14日(土)と15日(日)は無料観覧日です。関連講座は11月21日、12月12日、12月19日の3回で、会場は横浜開港資料館の講堂です。各回先着50名、1,000円で、事前の申し込みが要ります。展示解説は10月24日から12月27日まで5回、14:00から各回45分程度で、企画展の観覧料だけで参加できます。

同じ期間、4階の常設展示室ではニュース映画にみる戦後の横浜を上映し、1階のギャラリーでは『横浜グラフ』に見る昭和戦前期の横浜を展示します。

電話局で働いた人の資料

館報『ハマ発NEWSLETTER』第43号(2026年1月24日発行)に、この建物が電話局だったころに働いていた川島善子氏の資料が紹介されています。1928(昭和3)年生まれの川島氏は1942(昭和17)年4月に横浜中央電話局に入り、3か月の養成課程で東京の局番を暗記しました。戦後は占領軍の通話をつなぐ「連合台」の業務に就き、15〜20名ほどの職員と英語の特訓を受けたそうです。アルバムや「逓信歌」の歌詞カードが館に寄贈されることになり、主任調査研究員の西村健が館報に書いています。

観覧料と休館日

開館は9:30〜17:00で、券売は16:30までです。休館日は月曜日と年末年始ほかで、月曜日が祝日の場合は開館し、翌平日が休館です。2026年10月は5日、13日、19日、26日が休館で、祝日の12日(月)は開きます。

常設展の観覧料は一般(高校生以上)200円、小学生・中学生と横浜市内在住の65歳以上は100円です。20人以上の団体はそれぞれ150円と80円。毎週土曜日は小・中・高校の生徒が無料で、身体障害者手帳、愛の手帳、精神障害者保健福祉手帳を持つ人と介護者は無料です。毎月第2水曜日の濱ともデーは、横浜市内在住の65歳以上が常設展・企画展とも無料になります。企画展の観覧料は別に定められ、10月10日からの写真展の期間は上の料金です。

日本大通り駅からの行き方

住所は横浜市中区日本大通り12で、みなとみらい線の日本大通り駅3番出口から0分です。JR京浜東北・根岸線の関内駅南口から徒歩10分、横浜市営地下鉄の関内駅1番出口から徒歩約10分。横浜市営バスなら「日本大通り駅県庁前」で降りて徒歩1分です。

編集部の考え

この館の常設展は昭和戦前期を中心に組まれていて、入っている建物も、その時期に震災のあとで建て直された局舎です。いまの都心部の骨格は震災復興の過程でできあがり、この局舎も震災で壊れた旧局舎に代わって1929年に建ちました。改修では、通りに面した外壁のタイルをそのまま残しています。展示室を出て日本大通りに立つと、展示で見た時期に建った濃茶色の外壁が目の前にあります。

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