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妻沼のいなり寿司:聖天山の門前に残る、江戸の細長い稲荷寿司の形

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透明な容器に入った妻沼のいなり寿司。細長い俵形のいなり 3 本と、巻きずし 4 切れ、紅しょうがが収まっている
妻沼のいなり寿司。いなり 3 本に巻きずしを添えた 1 人前の詰め合わせ(2011 年 8 月撮影) 写真: tak1701d(CC0、Wikimedia Commons)

妻沼のいなり寿司は、しょうゆと砂糖で煮込んだ油揚げに酢飯を詰めた、細長い俵形のいなり寿司です。埼玉県熊谷市の妻沼地域、国宝の本殿を持つ妻沼聖天山の門前で売られていて、いなり3本に巻きずしを添えたものが1人前。文化庁が、地域で世代を超えて受け継がれてきた食文化を認定する「100年フード」に、令和4年度の伝統の100年フード部門で認定されました。申請したのは熊谷市文化遺産研究会です。

他の地域より長い俵形

認定の文は研究会が書いたもので、形の説明から始まります。他の地域より長いのが特徴で、江戸時代に利根川の水運で、江戸で流行した稲荷寿司が妻沼へ伝わり、「河岸で働く人々や、妻沼聖天山の参拝者などに喜びと満腹感を与えた」とあります。戦後に全国のいなり寿司が小さくなる中で妻沼では製法を変えず、「江戸時代に流行した長い形状が引き継がれたと考えられる」と、伝わった経緯は推定の形で書かれています。市立江南文化財センターの紙面にも、起源には諸説あると断りがあります。

令和4年度の認定は2023年3月3日に発表され、伝統部門は45件、全部門で70件でした。熊谷市では前の年度の「五家宝」に続く認定です。

利根川の河岸と聖天堂の普請

調査と申請を担当した江南文化財センターの山下祐樹が、2023年3月29日に聖天山の籠堂で開いた報告会の資料に、伝わった経緯の考え方が出ています。妻沼地域は米の産地で、複数の豆腐屋があったほど大豆も取れました。利根川の右岸にある妻沼河岸と葛和田河岸は、米を浅草・蔵前・両国の米倉へ送る拠点でした。船乗りが稲荷寿司を妻沼に伝えた可能性が高い、というのが資料の推定です。利根川で運ばれる浅草海苔と、栃木から来るかんぴょうを使って旅人の弁当として売られたとする説や、船乗りが手づかみで食べやすいように棒状になったという説も、説のまま並べてあります。

同じころ、聖天山では本殿の再建が続いていました。寺の縁起では、享保20年(1735)に工匠の林正清を総棟梁として聖天堂の再建が始まり、安永8年(1779)に本殿裏手の末社まで完成しています。起工から44年、工費は2万両。報告会の資料は、この普請と利根川の堤防工事の時期に働く人と参詣者が多かったことを、いなり寿司の起源と重ねて見ています。森川寿司の創業は、店の記録で宝暦年間(1751〜1764)とあります。

戦後に小さくならなかった

長い形が残った経緯について、報告会の資料は戦後の制度を挙げています。昭和22年(1947)の飲食営業緊急措置令で飲食店が休業を強いられたとき、東京のすし商組合は、客が持ち込む米と加工賃を握りずしに換える委託加工制度を考案しました。この制度で稲荷寿司の1貫の大きさが小さく固定され、東日本の稲荷寿司も縮小したと資料は考えています。

妻沼では、戦時中に販売を止めていた森川寿司の7代目店主が戦後に再開し、農家から米を、菓子組合に加入して砂糖を、東京の百貨店から海苔を調達したと店に伝わります。この店主は委託加工制度には加入せず、旧来の形を保つ上申書を出したため妻沼の形が引き継がれた、というのが資料の推定で、小林寿司と聖天寿しも同じ方針に従ったとしています。江戸の稲荷寿司の長さについては、弘化4年(1847)の滑稽本『魂膽夢輔譚』に出てくる1本が6寸ほど(約18センチ)で、妻沼のものと共通すると資料は考えています。

森川寿司・小林寿司・聖天寿し

認定の文が名前を挙げる森川寿司は、聖天堂の建立と同時期に江戸時代中期に創業した茶屋「毛里川」が前身。小林寿司は明治時代の門前茶屋を発祥とし、聖天寿しは戦後に聖天山の四脚門の近くに店を構えました。江南文化財センターの紙面では、聖天寿しは聖天山の境内、小林寿司は聖天山の近くにあります。1人前はいなり3本に巻きずし3〜4個です。

各店の営業日と営業時間は、公式の案内が見つからず未確認です。

国宝「歓喜院聖天堂」の拝観

妻沼聖天山の公式サイトは、寺の始まりを斎藤別当実盛から書き起こしています。実盛が当地の庄司として「ご本尊聖天さまを治承三年(1179)にお祀りしたのに創まります」とあり、次男が出家して建久8年(1197)に本坊の歓喜院を開きました。本殿は奥殿・中殿・拝殿からなる権現造で、江戸時代初期の火災で中門を残して焼けたあと、江戸時代中期に再建されたものです。彫刻の棟梁は石原吟八郎でした。参道の最初の門は、3つの屋根の破風を持つ貴惣門で、国指定重要文化財です。

平成15年(2003)10月から大修復工事に入り、2011年6月1日から一般公開、2012年7月9日に国宝に指定されました。本殿の拝観料は1人700円で、30人以上の団体は1人630円(要予約)。受付は平日10:00〜15:00、土日祝は9:30〜16:00で、拝観は平日15:30、土日祝は16:30までです(2026年10月7日に公式サイトで確認)。ボランティアガイドが定刻に無料で案内し、それ以外の時間は音声ガイドです。

熊谷駅からバスで約30分

聖天山の公式サイトのアクセスでは、JR熊谷駅から朝日バスで約30分。「太田駅」「西小泉駅」「妻沼聖天前」行きに乗り、「妻沼聖天前」で降りて徒歩1分です。東武の太田駅からは熊谷駅行きの朝日バスで約20分。車なら境内駐車場とめぬま観光駐車場に無料で約300台が止められます。

編集部の考え

江戸の長い形が妻沼に残った経緯を、申請した研究会は店の名前と年を挙げて書いています。昭和22年に東京のすし商組合が委託加工制度を始めたとき、森川寿司の7代目店主は旧来の形を保つ上申書を出しました。この店主は制度に加入せず、そこから妻沼の形が引き継がれ、小林寿司と聖天寿しも同じ方針に従った。報告会の資料の筋はこうで、認定の文の「考えられる」は、この資料でも推定のままです。

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