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要石と鯰絵:鹿島の石が鯰絵に描かれたのは、なぜ1855年の江戸地震からなのか

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大きな黒い鯰の上に着物姿の男女が大勢乗りかかり、棒や包丁で打ちかかる鯰絵。左上では小さな鯰を追いかける人々、右上に題の文字
1855年の安政江戸地震のあとに出た鯰絵。地震を起こしたとされる大鯰に、町の人々が打ちかかる 画像: 作者不詳(パブリックドメイン、Wikimedia Commons)

安政2年10月2日(1855年11月11日)の夜、江戸の直下でマグニチュード7.0〜7.1と考えられている地震が起きました。かわら版は翌々日の10月4日から市中に出回り、そのあとに黒い大鯰を主役にした一枚絵が大量に売られます。今日「鯰絵」と呼ばれるこの絵に、江戸から離れた鹿島の神と、その境内にある要石が繰り返し出てきます。

地震を鯰が起こすという考えも、鹿島の神が要石で鯰を押さえる伝承も、この地震よりずっと前からありました。それなのに、神と鯰と石をそろえた絵が大量に刷られたのは、1855年の江戸の地震のあとが初めてでした。なぜこの年だったのかを、鹿島神宮と香取神宮の公式サイトの説明と、鯰絵を扱う国の機関の資料で突き合わせます。

鹿島神宮と香取神宮、それぞれの要石

鹿島神宮の公式サイトは、要石を「地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられています」と説明しています。石は地中深くまで埋まり、水戸の徳川光圀がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩掘らせたものの底に届かず、怪我人が続出して諦めた、という話が『黄門仁徳録』にもあります。

香取神宮の説明は少し違います。この地方は昔から地震が多く、地中に大きなナマズが住み着いて騒いでいるのだと人々は恐れた。そこで香取・鹿島両神宮の大神が「地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます」と、境内案内は書きます。地上に出ているのは一部で、香取は凸形、鹿島は凹形、深さは幾十尺と伝えられています。

鹿島神宮の要石。玉砂利の地面に丸い石の頭が少しだけ出ていて、まわりに硬貨が置かれている香取神宮の要石。竹林の中に石の柱で囲われた小さな区画があり、「要石」と書かれた木の立札が立つ
左が鹿島神宮の要石(2013年7月撮影)、右が香取神宮の要石の囲い(2013年11月撮影)。どちらも地上に出ているのは一部だけ写真: Saigen Jiro(CC0、Wikimedia Commons)

鹿島は頭を抑える、香取は頭と尾を刺し通す。どちらも社が自分で書いている説明なので、両方をそのまま並べておきます。石のある場所は、両社とも公式サイトの境内案内図に要石の項目があるので、そこで確かめられます。

鯰絵とは何か

鯰絵は、地震を起こすものと考えられていた鯰を主に描いた錦絵で、一般に安政2年10月2日夜の江戸の大地震のあとに出版されたものを指します(国立国会図書館)。鯰を人の姿にしたものが多く、鬼・恵比寿・大黒天・職人・要石・瓢箪・神馬・鹿島大明神がよく登場します。

数は資料で違います。国立歴史民俗博物館は2021年の特集展示の趣旨で、同年末に禁止されるまでに200種を越えるものが発行されたといわれる、と書いています。内閣府の「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書は、当時この類の摺物が数百種つくられたというが、現在に残るのはおよそ200種、としています。

売れたから止められた、という順番でした。報告書によると、地震から2か月を過ぎた12月中旬、幕府は絵草紙屋への警告や罰金でも止まらない出版に対して版木の没収に踏み切り、87人の版元から集めた版木は328枚にのぼりました。

伝承は古く、絵は1855年から

内閣府の報告書は、鹿島神が鯰を押さえる、あるいは鯰を押さえているのが要石だ、という伝承なら14世紀にまで遡るといい、地震を鯰が起こすという説そのものは16世紀末から17世紀にかけてかなり広まっていたと推定できるといいます。ところが、鹿島神・地震鯰・要石の3つをそろえた図像になったのは、この安政江戸地震が「ほとんど初めて」だと同じ報告書は言います。「ほとんど」が付くのは、嘉永6年(1853)の小田原地震の図に鹿島神が要石で鯰を押さえる絵が載っているからです。それでも、爆発的に世に出たのは安政江戸地震のあとでした。

前の年の地震でも、押さえていたのは石ではありません。1854年の安政東海・南海地震の記録『地震世直草紙』の表紙に描かれているのは、鯰とそれを押さえる瓢箪です。鹿島の石は、江戸の地震で選ばれました。

大きな地震が繰り返された時代に異国船の来航が重なり、鯰絵の中の鯰は、来航したペリーに「黙れペロリ」と言い放ちます。地震のあとの世の中を語るその紙面で、鹿島の石は部品の一つでした。

留守の神と、儲かった職人

鹿島の神は、絵の中で地震を止めていません。10月は神無月です。鹿島神も出雲へ行っていて留守で、その隙に鯰が寝返りを打ったのが地震になった、と鯰絵の中では説明されます。歴博の展示解説も同じ筋で、鹿島神の留守を預かる恵比寿の不注意で鯰が暴れたと述べています。要石を持つ神が江戸を守れなかった言い訳が、暦の上に用意されていました。

鯰絵「恵比寿天申訳之記」。青い着物を着た人の姿の鯰が大勢並んで平伏し、その前で恵比寿が手をついて、右に座る冠をつけた神に向かって言い訳をしている
鯰絵「恵比寿天申訳之記」。留守を預かった恵比寿が手をついて申し訳をし、人の姿をした鯰たちも並んで頭を下げている(国立国会図書館の画帖「安政大地震絵」より)画像: 作者不詳(パブリックドメイン、Wikimedia Commons)

鯰は災いだけではありません。報告書が取り上げる「鹿島要石真図」では、鯰のまわりに材木や金槌・鉋などの大工道具、小判が散らばっています。地震のあとの家屋の建て直しで大工や左官が利益を得たという事実の表現だと、報告書は読みます。歴博の展示解説も、財産を失った人々が鯰を痛めつける一方で、仕事が増えた職人が鯰を庇う絵柄を紹介しています。鯰を押さえるのが要石ではなく瓢箪だったり、鹿島神の代わりに大黒や恵比寿が出てきたりする絵もあります。石も神も、絵ごとに取り替えられていました。

鯰絵「地震よけの歌」。雲の上の大黒天が打ち出の小槌から小判をまき、下で町人たちが拾い集める。右では刀を持った神が大鯰を押さえつけている
鯰絵「地震よけの歌」。大黒天が小判をまき、刀を持った神が大鯰を押さえる(1855年)画像: 作者不詳(パブリックドメイン、Wikimedia Commons)

鯰絵を見られる場所

東京大学総合図書館の石本コレクションは、石本巳四雄(1893〜1940)が集めたかわら版や錦絵582点で、1854年の安政東海・南海地震と1855年の安政江戸地震の出版物が全体の8割近くを占めます。全点がデジタル公開されています。国立国会図書館の「NDLイメージバンク」にも鯰絵のテーマがあり、「要石を掘る人々」「恵比寿天申訳之記」などが並びます。

歴博の特集展示「黄雀文庫所蔵 鯰絵のイマジネーション」は2021年7月13日から9月5日までの開催で、約200点の鯰絵を持つ黄雀文庫を初公開したものです。この展示は終わっています。

鹿島神宮駅と佐原駅・香取駅からの行き方

鹿島神宮へは、鉄道なら鹿島線の鹿島神宮駅です。神宮の公式サイトは、鹿島線は1時間に1本程度で時間によって乗り換えが変わるので事前に調べるように、と案内しています。水戸から鹿島臨海鉄道大洗鹿島線で来る場合、大洗鹿島線内ではSuicaやPASMOなどのICカードが使えません。東京駅八重洲南口からは高速バス「かしま号」があり、鹿島神宮停留所まで片道2,100円、所要約2時間です。駐車場は、大鳥居脇の参拝者第一駐車場(60台)が通常日2時間ごと500円、徒歩5分の第二駐車場(55台)は無料、徒歩3分の鹿嶋市宮中地区駐車場(150台)は平日無料で土日祝は普通車500円です。

鹿島線が1時間に1本程度なので、朝から境内と奥参道を歩くなら、前の晩の宿は楽天トラベルの鹿島神宮駅周辺のホテル・旅館の一覧PRで探せます。

香取神宮へは、JR成田線の佐原駅からタクシーで約10分。佐原駅からバスもあります。佐原駅の下り1駅(約5分)の香取駅は無人駅で、徒歩30分(約2km)です。東京駅からは高速バスもあります。関鉄グリーンバスの鉾田駅行きで「香取神宮前」で降りる場合、そこからの徒歩は神宮の公式サイトが5分、香取市の観光ページが1分と書いていて、一致しません。京成バス・千葉交通の銚子行きで「佐原香取」で降りると徒歩15分で、これは両方とも同じです。香取市は東京駅から乗り換えなしで約85分としています。駐車場は無料で普通車300台です。

佐原に泊まって翌朝に香取神宮へ向かうなら、楽天トラベルの佐原駅周辺のホテル・旅館の一覧PRがあります。

授与所の時間は、鹿島神宮が毎日8:30〜16:30、香取神宮が8:30〜17:00(祈祷受付は16:30まで、宝物受付は16:00まで)です。境内に入れる時間そのものは、両社の公式サイトのアクセスと境内案内のページには書かれておらず、未確認です。旅先で地震や大雨に遭ったときに開く公式ページは、旅先の大雨・地震で開く公式ページの記事に並べてあります。

編集部の考え

鯰絵の要石は鹿島の石を写したものではなく、地震のあとの世直しを語るために借りられた部品で、鹿島の神が神無月で留守だったからこそ、石も神も別のものに組み換えられた。

鹿島の要石が地震を抑えるという信仰が江戸にも広まっていたから描かれた、と言えば済みそうに見えます。内閣府の報告書自身も、鯰絵の中では「鹿島神への信心が主要」だったと書いていて、信心が前提にあったことはそのとおりです。ただ、その信心は16世紀末から17世紀には広まっていたので、1855年から鯰絵に描かれるようになった理由にはなりません。前の年の東海・南海地震では押さえていたのは瓢箪で、要石は江戸の地震のときに選ばれました。選んだのは、禁止されるまで200種を出し続けた版元と、留守の神の言い訳や、儲かった職人が鯰を庇う絵、小判の散らばる絵を買った町の人です。

いま鹿島と香取に行って見る石と、鯰絵の石は、同じ名前の別のものです。境内の石は社の伝承の石で、鹿島は頭を抑え、香取は頭と尾を刺し通す。絵の石は、江戸の人が地震のあとの世を語り直すのに借りた道具です。鯰絵を先に見てから境内に立つと、絵の中で瓢箪や大黒に取り替えられていた石と、地面から一部だけ顔を出している石の違いが分かります。

1855年より前に鹿島の神と鯰と要石をそろえて描いた摺物が、石本コレクションやNDLイメージバンクからまとまって出てくれば、この話は変わります。内閣府の報告書が挙げているのは、いまのところ小田原地震の図だけです。

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